新薬を作るのに、だいたい10年かかる。
莫大な研究費、膨大な候補分子の検証、何段階もの臨床試験。成功率は低く、時間もお金も桁が違う。
その常識を、AIで変えようとしている企業がある。
まず、薬がどうやって作られるかを知ってほしい
新薬開発は、ざっくりこういう流れ。
| 段階 | 期間 | 内容 |
|---|---|---|
| 創薬研究 | 2〜3年 | 病気の原因となるタンパク質や遺伝子を特定し、候補となる化合物を探す |
| 前臨床試験 | 1〜2年 | 動物実験で安全性と毒性を確認 |
| 臨床試験 Phase 1 | 1〜2年 | 少人数の健康な人で安全性と投与量を確認 |
| 臨床試験 Phase 2 | 2〜3年 | 数百人の患者で有効性と副作用を検証 |
| 臨床試験 Phase 3 | 3〜4年 | 数千人規模で大規模な有効性を確認 |
| FDA承認審査 | 1〜2年 | 規制当局による審査・承認 |
合計で10〜15年、費用は1薬あたり約3,900億円(26億ドル)。しかも臨床試験に入った薬のうち、最終的に承認されるのはたった12%。残りの88%は途中で脱落する。
この長大なプロセスのどこをAIが変えるのか。
製薬大手イーライリリーが「LillyPod」を稼働させた
2026年2月、製薬大手イーライリリーが自社専用のAIスーパーコンピュータ「LillyPod」を稼働させた。
スペックがすごい。
- NVIDIA Blackwell Ultra GPU 1,016基
- AI性能は9,000ペタフロップス超(毎秒9,000兆回の計算)
- GPUメモリ290テラバイト以上
- ゲノムデータ700テラバイトを処理可能
組み立てにかかった時間は、たった4ヶ月。
製薬会社が単独で保有・運用するAIスパコンとしては世界最強。
AIが加速させるのは「どの段階」か
LillyPodの目的は明確。新薬開発にかかる10年を5年に短縮すること。
ただし、すべての工程が均等に速くなるわけではない。AIが最もインパクトを与えるのは、初期段階だ。
| 段階 | 従来 | AI活用後(見込み) |
|---|---|---|
| 創薬研究 | 2〜3年 | 数ヶ月〜1年 |
| 前臨床試験 | 1〜2年 | 6ヶ月〜1年 |
| 臨床試験 Phase 1 | 1〜2年 | 1〜2年(大きな変化なし) |
| 臨床試験 Phase 2 | 2〜3年 | 1.5〜2年 |
| 臨床試験 Phase 3 | 3〜4年 | 2〜3年 |
| FDA承認審査 | 1〜2年 | 1〜2年(大きな変化なし) |
| 合計 | 10〜15年 | 7〜10年 |
創薬研究(最大のボトルネック)
従来、ウェットラボ(実験室)のチームが1年間にテストできる分子の仮説は約2,000個。LillyPodを使えば、数十億の分子仮説を並列でシミュレーションできる。分子がターゲットのタンパク質にどう結合するか、毒性はないか、体内でどう代謝されるか。これらをすべて仮想空間で検証する。
かつて「数年」かかった分子スクリーニングが「数日〜数週間」に圧縮される。
タンパク質構造予測
薬を設計するには、標的タンパク質の3D構造を知る必要がある。以前は1つの構造解析に数ヶ月〜数年かかっていたが、AIモデルを使えば数時間で予測できる。
臨床試験の最適化
臨床試験の期間を劇的に短縮するのは難しい(実際の患者データが必要だから)。ただし、AIによる患者の層別化やバイオマーカーの特定で、適切な患者を選んで失敗率を下げることはできる。臨床試験の募集期間が全体の約30%を占めるが、AIによる電子カルテ解析でこれを大幅に短縮できる可能性がある。
イーライリリーの幹部ディオゴ・ラウはこうも言っている。
「3ヶ月で新薬が作れるようになるという考えは、危険な誤解です」
劇的な短縮ではなく、各工程を少しずつ加速させていく。その積み重ねが、結果として数年の短縮につながる。
NVIDIAとの約1,500億円共同ラボ
LillyPodだけではない。
2026年1月、イーライリリーとNVIDIAは約1,500億円(10億ドル)規模の共同イノベーションラボをサンフランシスコに設立すると発表した。
生物学の専門家とAIエンジニアが同じ場所で働く。「スタートアップ環境」を意識した設計で、大企業にありがちな縦割りを排除する狙い。
NVIDIAのジェンスン・ファンCEOはこう言っている。
「AIはあらゆる産業を変革するが、最も深い影響を与えるのはライフサイエンスだ」
(参考:NVIDIA Newsroom)
イーライリリーのCEO、デビッド・リックスの言葉も印象的。
「低分子化合物の発見は、これまで職人芸のようなものだった。これをエンジニアリングの問題に変えられたら、人間の命にどれだけのインパクトがあるか考えてほしい」
アメリカで承認された薬は、日本でいつ使えるのか
ここが気になるポイントだと思う。
アメリカで新薬が承認されても、日本ですぐ使えるわけではない。日本にはPMDA(医薬品医療機器総合機構)という独自の審査機関があり、改めて承認審査を受ける必要がある。
かつてこの「ドラッグ・ラグ」は深刻だった。2000年代はアメリカの承認から日本の承認まで平均4〜5年かかっていた。がんの治療薬が海の向こうにあるのに使えない、という状況が社会問題になっていた。
しかし、この状況は大きく改善している。
- 現在のドラッグ・ラグは平均0.5〜1.5年に短縮
- PMDAの優先審査なら約9ヶ月、先駆け審査指定なら約6ヶ月
- 海外の臨床試験データの受け入れ(ブリッジング試験)も進んでいる
イーライリリーに関しては、実は日本に強い。
- 日本イーライリリー株式会社は1975年設立。51年の歴史がある
- 神戸に本社を置き、従業員は3,000人超
- 糖尿病薬「マンジャロ」はアメリカより先に日本で承認された実績がある
- アルツハイマー治療薬「キスンラ」はアメリカ承認のわずか2ヶ月後に日本で承認
LillyPodで創薬が加速すれば、日本の患者にも比較的早く届く可能性が高い。
ただし、新たな問題として「ドラッグ・ロス」が指摘されている。ドラッグ・ラグ(遅れ)ではなく、そもそも日本で承認申請すらされない薬が増えているという問題。2023〜2024年時点で、欧米で承認済みだが日本で未申請の薬は約86品目。特に希少疾患の薬や小規模バイオテック企業の薬で顕著になっている。
「便利なツール」から「社会のインフラ」へ
ビジネスの現場でAIを使うと、議事録が自動で作れたり、メールの返信が速くなったりする。それはそれで十分に価値がある。
でも今、AIが変えようとしている領域はもっと大きい。
AIが「便利なツール」から「社会のインフラ」に変わる瞬間を、製薬業界が見せてくれている。
GPU1基の性能は、1992年のCrayスーパーコンピュータ約700万台分。NVIDIAのファンCEOの言葉を借りれば、「この10年でAIの性能は100万倍になった」。
その100万倍の計算能力が、薬を作る時間を半分にしようとしている。
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